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2015年7月17日 (金)

紋切型社会と背骨

『そういえば新聞記者をしていたとき、私と同世代か下の世代のなかに、自分の言葉を持っている記者がまったくといっていいほど見当たらず、それが不思議だった。

言葉とは背骨から出てくるものである。
どんなに独りよがりであっても、言葉は背骨がないと出てこない。
みんな記者としては私より優秀だったが、背骨のある者はいなかったわけだ。
紋切型のフレーズが安直に使われているとするなら、それは日本人から背骨が無くなっていることの証である。
本書に対する唯一の懸念は、みんな背骨がなくなってぐにゃぐにゃだから、案外、この本で斬られても、ぐにゃぐにゃっとして何も感じないかもしれないということだ。』
探検家であり、ノンフィクション作家の角幡唯介さんのブログ。
武田砂鉄さんの『紋切型社会』(朝日出版社)を読んでの感想の一部なのだが、「言葉は背骨がないと出てこない」とは「なるほど」である。
ここで氏が同世代もしくは下の世代に感じている「背骨」のなさは政治業界にいてしばしば感じる事である。
どんな政治課題に関しても、また地元活動やプライベートな場面ですら「紋切型」でしか語れない政治家がいかに多いことか。
「つまんねー」
まあ、かといって、大したことでないことをデフォルメして書いたり、
人の書いたもんをカットアンドペースとして、ちょっと加工して、さも自分が考えたようなものとしてしらっと発表するのもどうかと思うけどね。
それはそれで背骨が曲がっとるぜ。
以前も書いたけど。
『青鞜』じゃないけれども、それぞれが真剣勝負で書いて、批評し合う「論壇」が今こそ必要なのだと思う。
右も左も関係なく。 そ
ういう作業を「面倒臭い」「時間がない」と言って避けているうちに「言葉」を鍛錬する機会がなくなり、いつしか「ワンフレーズ・劇場型」のセールストーク、もしくは一歩間違うと人心を惑わすペテン政治が生まれる土壌ともなっていくような。
どちらも感度が低くなっているからこそ、社会が「紋切型」となっているからこそ、それは成立するにかもしれない。
思わず、背中に手を伸ばして自分の背骨を確認しながら、そんなことを思う。
(ってことで、台風の一日、『紋切型社会』でも読んで過ごそうかな)


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