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2015年7月18日 (土)

若者たちの演説とスマホ

http://www.zassi.net/detail.cgi?gouno=46740
『学生団体「SEALDs」に感じる「危うさ」と「嫉妬」』 -(古谷経衡)を興味深く読んだ。
思えば30年前、ワタクシは彼らと同じようにマイクを握って訴えてる「若者」だった(笑)
しかし、当時、政治参加する若者はあくまで「一兵卒」的扱いで、マスコミに注目されることも、ムーブメントを起こすことも難しかった。
当時の政治課題は「汚職」等の「政治腐敗」、そして「売上税」(≒「消費税」 当時はそういう呼び名だった)
生活・暮らしに直結するとしても、社会の主な稼ぎ手ではまだない学生たちの訴えは空回りする部分も多かったのかもしれない。

60年安保以来55年が過ぎた今、若者と政治の距離が近づいているのが、何より今の政治課題が問うのが「戦争と平和」であるからだろう。迫力が違う。

さて、ワタクシが「SEALDs」に集う若者たちを見ながら、最も関心を持つのは「演説スタイル」である。
若者たちの演説は本当にうまい。関心する。
ただ、時折ドキドキしてしまうのは、彼らがスマホの画面を確認しながら演説をすることである。
政治業界の中で、アンチョコを見ながら演説する、というのは、禁じ手で、メモを見て話した瞬間から「大したことねーな」と言われてしまうので、ヘッタッピと言われても、やせ我慢しつつ、何も見ずに演説をするよう自分に課して来た。
これはワタクシだけでなく、たいていの「演説家」(講師他も)は同じなのではないだろうか。

一応のシナリオを頭に浮かべつつも、当日集まった人の顔ぶれや反応を見ながら、内容を変える。
もちろん、あがってしまって言いたい事を言い忘れたり、失敗など無数にある。でも、ある時には原稿がないからこそのいい演説というものが出来たりもする。

もはや、そういう感覚こそ「古い」のだと自覚もする。
先般出席した、結婚式の新郎新婦の挨拶も同様にスマホを見ながらであった。
今の若者世代の、公の場での挨拶は、一旦原稿に起こして、入力し、読む練習をし、暗記もしつつも、忘れたらちゃんと「バックアップ」が取れる体制にしているのであろう。
だからこそ、彼らの演説のあの安定感なのだな、とも思う。

ただ、経験を重ねるうちに、いずれ彼らはスマホを見ずに演説する日が来るだろう。
補助輪を取って、言葉のバランスを取りながら、人の心に訴えかける日、その時こそが彼らが訴える先に取っては、本当の脅威なのだと思う。

予定調和から外れたところに興奮と言うのは起き、それが一瞬にして手のつけれないムーブメントに変わることを、手練手管の大人たち(≒おっさん政治家)は知っているのだから。


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