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2015年9月15日 (火)

奥田公述人と言論の府の言論不在

参議院の特別委員会の中央公聴会の傍聴に行って来た。
単に議論の内容だけを見たければ、ネット中継を見た方が楽だ。
でもワタクシは「ライブ」で見たかった。
空気感を知りたかったのだ。
予想通り、傍聴に来ているほとんどは安保法正反対である。
前議員は国会の傍聴にも特権があって、IDとバッヂがあれば議員傍聴席に入れる。
あいにく、というか、議員の時すらバッヂをつける習慣がないワタクシはもちろん不携帯。
IDのみでは通常傍聴として受付してくれということで(衆議院は入れるのだがね)、傍聴に入るまで300名の傍聴の人々とともに特大モニターを見ながら待ち時間を共有したのだが、委員会室以上にこれがとても勉強になった。
濱田邦夫元最高裁判事や小林節慶応大学名誉教授の時にも喝采は起きたが、やなりみんなの目的は奥田君だった。
さすがの奥田君も緊張し、咽がカラカラなのか時折噛み、言葉が出るのがワンテンポ遅れる度に、「がんばれ〜」との声があがる。そして後半に近づいた山場ではハンカチを目に当てるもの、声を押し殺せなくなり肩をふるわせて泣く者、その背中をさする者…彼のちょっと生意気そうな、でも真面目で、まっすぐな青い言葉は、孫、子ども、従兄弟、兄、弟、甥…自分の家族の中にもいそうな存在なのだ。
彼は何も特別なことを言っている訳ではない。ただただ「自分の言葉で語って」いるだけだ。
だからみんな感情移入ができる。
彼の言葉は昨日の、今日の、私たちが口にした言葉そのものだからである。
なるほど、だから「うねり」が起こるのだ。
一方で、言論の府のはずの国会に踊る言葉は、使い古され、誰かに遠慮し、オブラードに包まれていて味も素っ気もない。
そして、驚いたが…このワタクシにして(政界カルトQで優勝出来るかもと思っているぐらいの事情通?)全く名前の知らない若い参議院議員が多数いる。
少なくともテーマを持って国会で活動をしていれば、必ず名前は通ってくるはずだ。だが、この小粒な感じはなんなのだろうか。
奥田君が語ったとき、一瞬だがみんなは恋に落ちる。そんな錯覚を持つ。
田中角栄も、小泉純一郎も、国民とはそんな瞬間があったのだと思う。
たとえその人とは政策的に違っても「次何を話すか、ワクワクする」という期待感。
もちろんそれはいいこととは限らない。
しかし、今や政治家でそんな瞬間を作り出させる人はいるのだろうか。

デモは安倍政権の説明が不十分だからこそ大きくなり、奥田君たちへの期待は国会議員がダメな分だけ増して行く。
皮肉である。
しかし、ため息をついているばかりでなく、行動しなければならない。
ワタクシにもひとつの転機が訪れている。


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